「しまやの筑豊物語」

文・永野 まいこ

白木弘美氏

ー導入

金箔が優美に煌めく精巧な宮殿(くうでん)、繊細な彫刻の施された欄間、幽玄な蒔絵の金粉に彩られた猫戸。絢爛豪華な「金仏壇」は、仏教美術の集大成とも言える存在です。今回お届けするのは、筑豊・直方の地で仏壇作りを通して漆塗りや金箔押しの技術を磨き、日本を代表する歴史的建造物の修復を数々手がけてきた白木弘美(しらき・ひろみ)さんの物語です。

ものづくりへの探究心を育んだ土壌

1936年、糟屋郡須恵町に生まれた白木さん。1951年、中学卒業後の15歳より電業社の電柱の建て替えなどの仕事を手伝うようになります。そこで2年ほど働き、工事に関わる仕事を覚えました。

「17歳になった頃、母の出身地ということで縁のあった大川市の仏具店に行くことになりました。技術を身につけるための、いわゆる丁稚奉公ですね。そこで6年間ほど働きました」

筑後川の河口にある大川市は、古くより木材の産地日田から川を下ってくる木材の集積地であり、木工の指物(家具)製造が盛んな場所です。

「その仏具店では、蒔絵の仕事も請け負っていました。今になって思うことなんですが、漆と金粉で文様を描き出す蒔絵というのは『漆の最高峰』とも言える仕事なんです。織田信長や豊臣秀吉によって天下統一の気運が高まる時代に花開いた豪華絢爛な桃山文化においても、蒔絵を施した家具調度品は大変珍重された歴史があります。大川では自分の手で蒔絵の仕事をすることはできなかったけれど、『見る』ことを通してあらゆる工程を吸収する時間だったように思います」

そしてその後、「蒔絵」の存在が白木さんと直方の地を結びつけることとなります。

蒔絵に導かれし直方の地

1959年当時、「長谷川仏壇店」はふるまち商店街の一角に間口が3間、奥行きが5間ほどの店舗を構え、職人数名を抱えて家内工業的に特殊な仏壇の製造・販売を行っていました。その際に蒔絵を依頼していたのが、白木さんの働く大川市の仏具店だったと言います。

大川で奉公としての修業を6年間積み、「職人として身を立てたい」と考えていた白木さんは、蒔絵の依頼元であった縁を頼りに直方の地を訪ねます。そこで「長谷川仏壇店」創業者である長谷川才蔵(はせがわ・さいぞう)氏に見初められ、働くこととなりました。

「当時の私は23歳。大川では『見て覚える』ことが主だったため、本格的に手で覚えるのは直方に来てからのことなんです。店舗の裏のスペースを簡易的に作業場に改装し、仏具の製造や修理の仕事を担当しました。ベテランの職人から見ると『小僧が何をしよるんや』というくらいしか仕事ができなかったことでしょう。でもひとつの仕事が始まったら、自身が学んできたことをいかに上手に活かすかという心がけにかかってくるわけです。その努力をするかしないか、それだけのことです」

仏壇の製造には木地(きじ)、彫刻、漆塗、金箔押、蒔絵、錺金具(かざりかなぐ)など、あらゆる工程があり、基本的に仏壇は各工程の職人の分業によって製作されるものです。白木さんは主に漆塗・金箔押の職人として、接着剤の役割を果たす漆を塗った下地に、1万分の数ミリという極薄の金箔を1枚1枚置いていき、均一に継ぎ目なく貼っていく技術を磨いていきます。

人々の暮らしに息づく仏壇の移り変わり

白木さんの入社から7年後の1966年、「長谷川仏壇店」は販売部門と製造部門を切り離す形で、頓野に「長谷川仏壇製作所」を設立。製造部門を担う会社として創業すると同時に工場の建築をスタートし、その工場長に任命された白木さんは工場の設計図を書くところから始めたといいます。

その背景には仏壇を取り巻く環境の変化があります。それまで仏壇というものは、ほぼ家内工業の規模で造られるもので、つくることのできない部品は取り寄せて使うことが常でした。手間も時間も掛かるため、仏壇は必然的に高価なものとなります。

「直方では炭鉱が疲弊し、産業の火が消えかかってしまった時代。新工場では『仏壇の大衆化』を目標に掲げ、仏壇の一貫製造と量産化を見据えた部品の開発に取り組みました。仏壇を構成するすべての部品に関して『どうすれば内製化できるか』『どうすればコストを削減できるか』ということに頭を悩ませる日々。それまでは職人として各工程の部品製造の技術を高めていくことが信条でしたが、新機軸として価格・品質でお客様に喜んでもらえる仏壇づくりという視点が加わったのです」

仏壇の大衆化に先鞭をつけた経営における方針転換と、白木さんの確固たる技術力が両輪となり、成長の軌道に乗った「長谷川仏壇店」。その後1985年に放映が開始されたテレビコマーシャルによって「おぶつだんのはせがわ」というキャッチフレーズは全国に知れ渡ることとなり、直方の商店街の一角に店を構えた仏壇店から日本最大の仏具メーカーへと躍進を遂げていく礎を築きました。

仏壇の製造から寺院の修復へ

仏壇の量産化体制の地盤づくりに尽力する一方、「長谷川仏壇店」には1967年にその後の運命を一変する仕事が舞い込みます。北九州市の浄土真宗本願寺派鎮西別院の御宮殿・須弥壇(しゅみだん)の内陣施工です。当時、才蔵氏の後継として専務取締役を務めていた長谷川裕一(はせがわ・ひろかず)氏は、寺院の修復という分野の仕事にも光明を見出し、営業活動を行っていました。

それまでの主の業態である仏壇の製造・販売は「見込み生産」に当たりますが、寺院内陣施工は指定されることで仕事が発生する「受注生産」となり、営業活動の強化が不可欠になります。加えて仏壇の製造とは異なる特殊な技術が必要となる分野です。

「浄土真宗本願寺派鎮西別院の御宮殿・須弥壇の内陣施工をしてもらえないかという打診があったんです。その仕事は、短期間の工期指定のために他社の辞退が相次いでいたんです。そこで我々で引き受けて、各職人との共同作業と作業の効率化についての協議を進めた上で作業を行い、93日という短納期で作業を完遂することができました」

こうして寺院内陣施工の分野で第一歩となる実績を作ることに成功したのです。

その後1973年には直方市中泉に寺院施工を主な業務とする「特注部門」を設け、1977年には、特注部門を「長谷川仏壇製作所」から分離させ、寺院内陣施工を専門とする「長谷川仏具工芸」(現「はせがわ美術工芸」)を設立しました。

そして大きな転機となる1984年、浄土真宗本願寺派の本山である京都・西本願寺において国宝に指定される阿弥陀堂内陣の御宮殿、須弥壇の修復作業(昭和大修復)の入札に参加することになりました。入札のため、短納期でいかにコストを抑えた施工を提案できるかが重要になります。

「見積もりを出そうと思って京都へ赴き、現場を確認して材料や手間を想定して計算するんだけど、経験がないものだからとても苦労した記憶がありますね」

無事に受注できたものの、そこからがまた大変でした。

「京都という土地柄では、我々のような地方の職人が受け入れられる難しさを感じました。京都は日本の都として芸術の栄えた地ですから、全国の職人が技術を学びに集まる場所。バックボーンが全く異なります。『田舎の職人にこんな大きな仕事ができるか』という空気を感じて、我々も経験のない仕事だけど、『これは負けちゃおれんぞ』という意気込みで望んだことを覚えています」

御宮殿の修復作業では、幅が約6メートル、重さ数トンの屋根を解体して横倒しにして吊るし、滑車で回転させながら作業を行うという大胆な施工方法を考案しました。

「最初に覚えた電工の作業の経験も、ここで活かすことができたわけです。一体何をしているんだという目でも見られましたが、反面すごいことをする会社があるという評価もいただくことになりましたね」

重要文化財の修復作業により職人へ回帰

この西本願寺の昭和大修復を契機にその名を全国に知られることとなった「長谷川仏具工芸」は、1987年に清水寺(京都)の開山堂御厨子、須弥壇等の修復、1990年に太宰府天満宮(福岡)の平成大修復、1996年に国宝・彦根城(滋賀)の平成大修復、1997年に浄土宗本山知恩院(京都)の重要文化財・経蔵修復など、錚々たる歴史的建造物の仕事に筆頭として関わっていくことになります。

「重要文化財の修復は、指針を示す設計図があるわけではない。見本があって誰かが教えてくれる仕事などは一切ない。誰も見たことのないような秘仏も扱うこともある。教育庁の『文化財保護課』との協議を重ね、その建造物の時代背景や修復の経緯を調査したうえで、最終的には自身の目で観察して材質や工法を察知し、現代において入手可能で最適な材料と技法を判断する。さまざまな制約の中、自身の職人としての感覚を研ぎ澄まし、経験を積み重ねながら自分自身を高めていかなければならないのです」

光と影の両面を照らす祈りを込めた技

かつて筑豊の地に繁栄をもたらした炭鉱。一方でそれは、採掘中に起こる事故により多くの人命が失われた歴史でもあります。故に炭鉱に関わる人々は信仰心が厚く、仏壇を大切にしていました。古町にある圓徳寺の仏壇は、直方の炭鉱王である貝島氏の仏壇を寄贈されたものだということです。人々は「事故が起こらないように」と祈願し、そして「事故で亡くなった方々が安らかに過ごせるように」という鎮魂の祈りを込めて、日々仏壇の前に座っていたのです。

そもそも寺院の仏壇の由来は、極楽浄土の様相をこの世に表したものです。そして家庭の仏壇は寺院の仏壇(内陣)を模して小型にしたもので、厨子と一体化して箱型にしたもの。ですから、お仏壇は「家の中の寺院」のような存在とも言えるのです。

これからの夢

2001年には新しい技術を用いて工芸品を復元する取り組みとして、豊臣秀吉が造った「黄金の茶室」を製作した白木さん。壁面や屋根部には木でなく軽量アルミ板を使用し、アルミ板に樹脂による金箔押しを施すことで移動・組み立てが可能な茶室を実現しました。

さらに2005年には金箔の代わりにプラチナ(白金)を使用した現代版の「プラチナの茶室」を製作し、同年の「愛・地球博(愛知万博)」で一般公開されました。

2008年からは、重要民俗文化財の唐津曳山の漆箔の塗り替えを行い、その技法について現地での直接指導を行うことで、伝統的技術の次世代への継承にも重要な役割を果たしました。

「仏壇の製作を通して磨いた技術を全国各地の建造物に活かすことができ、私はとても環境に恵まれていたと感じます。『心技体』という言葉があるように、技術があるだけでは到底成し得なかったことを、「長谷川仏壇店」に脈々と受け継がれる熱い想いや推進力で実現することができました。

私が修復に携わってきた重要文化財や国宝に指定される建造物は、300年〜400年という悠久とも言える長い年月を経て評価を得るものがほとんどです。素材(木材・塗料)や道具も移り変わった現代に当時の姿を残し、技術の伝承に取り組む対象があることは素晴らしいことだと感じます。では果たして現代において、300年後、400年後にその姿を残す価値のあるものが作られているのだろうかとも思うのです。ですから現代の文化遺産を作るということが目標です」

白木 弘美 氏

【表彰】

2011年 福岡県知事表彰受賞(福岡県優秀技能者等表彰)

2015年 厚生労働大臣表彰受賞(卓越した技能者表彰)

2016年 黄綬褒章受賞

取材協力

秋吉 泰良 様

株式会社はせがわ美術工芸 代表取締役社長 (取材当時)

縄手 寿典 様

株式会社はせがわ美術工芸 社長室室長 (取材当時)

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